僕とリヤ王part.8〜最終章〜

アースデイ長野の打ち上げの後、早速野沢温泉のなるさんから『リヤカーが見つかった』との報告を受けた僕たち。



なるさんと相談の上、見つかったリヤカーは、5月31日の午前中に僕のアパートに届くことになりました。


そのリヤカーを迎えるべく、僕とはろは『前日から一緒にアパートで飲みながら、2人で前夜祭やっちゃおう!』という話をしていました。



ところが…



その2人だけの前夜祭の話が、ふとしたきっかけでなるさんに伝わり、瞬く間に『味のあるリヤカーを探す会』のみなさんに伝わります。


なんというネットワーク!!



2人で前夜祭をやる予定だった5月30日夜、僕のアパートには、なんと約20人もの人達が集まり、みんなの夢を肴に、朝まで盛大に『リヤ王歓迎前夜祭』が行われたのです!



ほんとにすごい。


リヤカーが見つかることだけでもすごいのに、こんなにたくさんの人が集まってくれて、しかもリヤ王を応援してくれているなんて!!




この夜、朝まで続いた『リヤ王歓迎前夜祭』。


しかし、僕とはろに寝ている余裕などありません。(←興奮しすぎにより。です。笑)


早速ホームセンターに行き、リヤ王をリフォーム(?)するためのペンキや板を買いに行きました。


5月31日、翌1日とリヤ王の作業が続き、その後も『あそび屋わにわに』ののぼりを縫うなどの作業が続きました。




―そして2008年6月17日火曜日



僕たちは自慢のリヤカー『リヤ王』を引き、若里公園へと初出動するのです!





僕とはろが出会ってから初出動に至るまで、約3年。


その間に僕たちを支えてくれたもの、僕たちの夢を押し進めてくれたもの、それは『人のつながり』でした。


僕たちにとっては、感謝してもしきれない『人のつながり』。


だけど、僕たちを応援してくれる人達は、いつも少年の様な笑顔で『一番楽しいのは自分だから!』と言ってくれます。




もちろん周りの皆さんには今でも、これからもずっと感謝しています。


だけど…

協力してくださった皆さんは、『あそび屋わにわにのために』という思いだけで協力してくれたんじゃない。
皆さんの言う『自分が楽しいから!』、この言葉の持つ意味を、いま改めて実感しています。



思い返せば、わにわにだって『どうしたら楽しくなるかな?』から始まったのです。



―『楽しい』

この言葉は、人を動かし、世界を変えてしまうほどのパワーを持った言葉なのかも知れません。



そんな『楽しい』をたくさんの人に届けられるリヤ王でありますように…。



そんな願いを乗せて今日も、リヤ王が行く!!!
  


Posted by どんちゃん. at 2008年10月21日08:31

僕とリヤ王part.7

2年振りにはろと再会し、長野での活動方針も『リヤカーで子どもに遊びを届ける』と決まったものの、リヤカーがなかなか見つからず、活動が始められずに苦悩していた2008年3月の終わり。


僕の電話に1本の電話が入ります。



それは僕の知らない男の人からの電話でした。



『初めまして、どんちゃんですか?アースデイ長野の実行委員長をしてる者です。知り合いからどんちゃんのことを聞いて電話したんですが、よかったらアースデイ長野の実行委員に入ってもらえませんか?』


そんな電話でした。



僕はそんな知らない人からの唐突な誘いに、二つ返事でこう答えました。

『ぜひ!よろしくお願いします!』




はろとのリヤカーの活動とは全く関係のない人からの誘いでしたが、とにかく長野で何かしたいと思っていたことと、元来何にでも興味を示しやすい僕の性格が味方し、僕は4月に長野市若里公園で行われるアースデイ長野の実行委員に入ることになったのです。



それから僕は実行委員会に参加するようになり、一方でははろとリヤカーを探し続ける日々。


実行委員では、『どんちゃんに子どもが遊べるブースを任せたい』、そんな話が出ていました。


僕ははろにこんな提案をしました。


『アースデイをめどに、改めて本気でリヤカー探しをしよう!そしてアースデイにリヤカーを率いて出動しよう!』



しかし―


やはりリヤカーは見つかりませんでした。



4月27日のアースデイ本番。


僕たちは信大教育学部の備品であるリヤカーを1日だけ借用し、アースデイに参加します。


集まったスタッフは11人。

子どももたくさん遊びに来てくれました。

本当に楽しい1日でした。



そして、その夜行われた『アースデイ交流会』でのこと。


僕とはろは、集まった人達に対し、こう呼び掛けました。


『僕たちは今、子どもと遊ぶ活動をしたいんです!そのためにリヤカーが必要なんです!何か情報があればご協力お願いします!』



アースデイ交流会に参加していた皆さんは本気で僕たちの相談に乗ってくれ、すぐに『味のあるリヤカーを探す会』が立ち上がりました。



ここまで本気で協力してくれる人達が、しかも何人も!


僕たちに『感謝』以外の言葉は見当たりませんでした。




そして、


なんと、



アースデイから1週間も経たないまま!




『リヤカー見つかったよ!』



アースデイ交流会に参加していたなるさんからの一報でした。



まさかこんなに簡単に見つかるとは!!



俺たち今まで何か月もなんで見つけられなかった!?


俺たち努力不足!?


いや、これは本当に『人のつながり』のおかげです。



人のつながりってすごいんだ。



2人でこんなに苦労したことが、みんなで協力すれば、こんなに簡単に見つかってしまう。



僕たちは人のつながりの凄さ、大切さ、そしてありがたさを噛み締めました。



リヤカーが見つかった今年5月、いよいよ僕たちの思いが形となる日が近付いていました。


  


Posted by どんちゃん. at 2008年09月19日11:02

僕とリヤ王part.6

清里での環境教育ミーティングから2年後、2007年11月のことでした。




『もう日本にかえって来た?』

『うん、もう長野にいるよ!どんちゃんの連絡先失くしてしまって連絡できなかったんだ。』

『そうか!とりあえず会おうよ!』

『じゃあ明日7時に長野駅で!』




教育学部、学校教育に疑問を感じつつも、相変わらず自然と子どもが好きな僕が、2年前に環境教育ミーティングで出会った信州大学工学部生、『はろ』こと半田裕と再会する時が来たのです。



―そして、再会当日。



『久しぶり!元気だったか!?』


『うん。そっちは?』



ぎこちない会話が2人の関係を表現していました。


堅い約束を交わしたとはいえ、会うのは2年振り、2回目なのです。



とはいえ、熱い約束を交わした2人、すぐに会うことが決まりました。




遠距離恋愛だって破れがちな2年もの間。

しかし、1夜にして熱い約束を交わした2人。

その、国を超えた男同士の2人の約束は、しっかりと保たれていたのです!!!(笑)




2人はファミレスへと向かい、早速話題を切り出しました。


『長野で何ができるかなぁ?』




当時、僕たち2人は地元長野で活動したいと思いつつも、その機会がなく、様々な物と人が集まる首都東京での活動を余儀なくされている状態でした。



『僕たち大学生と子どもとが触れ合える機会を、この長野でどうやって作ろうか?』




はろの帰国後初めて再会したこの11月を機に、2人での話し合いは翌年3月まで続きます。



その間、様々な案が出ました。


小学校に赴くこと、長野市役所に相談すること、下校ルートで駄菓子屋を営むこと。




そんな議論を繰り返していた2008年1月下旬、突如としてそのアイデアが浮かぶのです。




―リヤカー。



リヤカーならば場所を問わず移動できる。

リヤカーならばたくさんの遊び道具を乗せて子どもの元へ行くことができる。

リヤカーならば、その姿の滑稽さで、子供たちを集めることができるんじゃないか。



僕たちの方針は固まりました。


『リヤカーをひいて子供たちに遊びを届けよう。』




僕たちはリヤカーを探し始めました。




しかし…




この時代、なかなかリヤカーが見つからないのです。




僕たちは、農村やリサイクルショップ、農機具店へ赴きました。



そこで待っていた反応は…




『リヤカーなんてないよ。』


そんな返事ばかりでした。




やっとリヤカーを見つけても、購入すればその値段は10万円近く。


学生である僕たちには手が届かない値段でした。





『やりたいのに、できない…。』


『どうすればいいんだ…。』





そんな戸惑いを抱えてい2008年3月下旬、僕の携帯電話に、運命の着信があるのです。



〜つづく〜
  


Posted by どんちゃん. at 2008年09月06日04:20

僕とリヤ王part.5

環境教育ミーティングに参加し、はろと別れた僕は、その後も環境教育に関するセミナーやイベントに顔を出すようになりました。



その中で、僕の中にある2文字が浮かんで来たのです。



―休学。



僕の探し求めた進路は、きっと環境教育にヒントがありそうだ。

でも教育学部にいても、学校教育の勉強しかできない。

来年は4年生。学校教員を目指さなくなった今、社会に出る前にもっと色んな経験をしなければ!


そう思ったのです。



僕は1年間の休学を決めました。


休学期間中、僕は農家でのバイトや各地への旅、環境教育で出会った仲間との活動など、様々な経験をしました。

この1年間、たくさんの人と出会い、本当に充実した1年になりました。


しかし


1年後の4月に復学した僕を待っていたのは



無気力。



充実した1年の休学期間を過ごし、自然の中で子どもと関わる仕事をしたいという思いが固まり、僕の頭にはすでに学校教員への道はありませんでした。


僕は教育学部で学校教育を学ぶ意味を見出だせなくなっていたのです。


復学し、あと1年で卒業にも関わらず、しだいに僕の足は大学へと向かわなくなっていきました。


卒業に必要な単位を取ることもできず、10月には早々に留年が決まってしまいます。




俺何やってんだろう…。



そんなことを感じていた11月、僕はちょうど2年前に交わした約束を思い出します。



あいつはもう日本にかえって来たかな…。



僕ははろにメールを送りました。



すると…


メールが…


返って来たのです!


『もう長野にいるよ!どんちゃんの連絡先失くしてしまったから連絡来るの待ってたんだよ!』




なんだそれ!!

大事な約束をしたのに連絡先失くすなよ!笑



とにかく、僕ははろと会う約束をしました。



彼と会えば、今の無気力な大学生活を打開するきっかけになるかもしれない。

何かしたいという僕の思いは高鳴りました。


いや、ただ純粋に彼に会いたかっただけかも知れません。





2年越しの約束が―




今、果たされる―




何かが―




動き出す―



〜つづく〜
  


Posted by どんちゃん. at 2008年08月31日19:15

僕とリヤ王part.4

〜何も分からず環境教育ミーティングへの参加を決め、そこに何かを期待しつつ当日を向かえる!



僕が中学3年の夏、県内では進学校とされている金沢錦丘高校への進学を決め、高校への受験勉強に精を出している頃でした。


当時、僕の担任で、理科の教師だった清水先生が、地球環境についての授業をしてくれました。



たった50分の授業。

その授業が僕に強烈な印象を与えるのです。



『今地球ってやばいんだ。』


『何とかしなきゃな。』



そう思いました。




僕はその後の中学校の卒業文集にこう書いています。



『将来の夢は決まっていないけど、地球環境に役立てる人になりたい。』



その後、高校に進学した僕は、環境について学べる大学を探しました。



そして見つけた進学先、それは信州大学工学部環境機能工学科でした。



長野は家族旅行などで度々訪れている馴染みの地。

そこに、環境と名の付く学科があったのです。



僕は目標をそこに決め、高校でも理系クラスを選び、受験勉強に励んでいました。




しかし、高校3年の夏。


今でも明確な理由は覚えていません。



僕は志望を教育学部に変えました。



先生にも『何で今から変えるんだ?』と何度も聞かれました。



でも、僕は、小学校の先生になろう。
そう思ったのです。


理由は子どもが好きだから。


小さい頃から年下の子たちとよく遊んでいました。


僕は信州大学教育学部に入学しました。




―そして大学3年の秋。



先生から聞いた環境教育の4文字。


中学高校時代に目指していた『環境』と、今学んでいる『教育』。



僕は大きな期待を抱いて、環境教育ミーティングに参加しました。



2泊3日のミーティングには、本当に様々な、そしてあつい思いを持った人が集まっていました。

環境問題を解決したい人、世の中を平和にしたいひと、人が大好きな人。



そして2日目の最後の夜。


僕はたまたま信州大学工学部で学ぶ若者に出会うのです。


信州大学だから話しかけたのではなく、何気なく話をしていると、なんと同じ長野市内の信大に通っているというのです。


僕は自分の思いをぶつけました。


子どもが好きなこと。

学校教育に疑問を感じていること。

自然の中で遊ぶのが好きなこと、それが子どもにとってもいいんじゃないかと思うこと。



そんなことを彼と1晩中語り合いました。

彼も子どもが好きで、何かしたいと思っているとのことでした。



『長野に帰ったら一緒に何かやろう!』

僕はこう誘いました。



ただ、彼はこのミーティングの後、1年半の留学に行くとのことで、彼の帰国を待って長野で再会することを約束しあったのです。



そのときの彼の名は半田裕、これがはろとの初めての出会いだったのです。



〜つづく〜
  


Posted by どんちゃん. at 2008年08月30日19:11

僕とリヤ王part.3

びんずるのあと、急に体調を崩してしまいました…。
が、何とか復帰しました!

これからますます夏本番です!


今日は久しぶりに、僕とリヤ王の物語『僕とリヤ王』(←そのまま)を書いてみようと思います。



―大学2年の春、中村先生との出会いで、少年時代以来、久しぶりに自然の中へ入っていった僕。
そんな中、事件は起こる…


『僕とリヤ王part.3』

大学2年も終わろうとしていた2005年の2月。僕は雪深い戸隠高原へと来ていました。

自然の中での楽しみ方を覚え、それに夢中になっていた僕は、冬の森を楽しみに来ていたのです。


このころ、自然の中に入る時、何か困った時に役に立ったのは、少年時代の思い出でした。


『この木に登るとやばいかな?』

『確か、こういう所にはスズメバチがよくいるんだ。』

『この雪の下には川があるかも知れないから踏まないでおこう。』


他にも、必死に図鑑で覚えた生き物の名前、火遊びをしてこっぴどく怒られた、効率のよい火の起こし方、そんな思い出達が、未だ僕の体には残っていたのです。



―僕を成長させてくれたのは自然だ。



僕はそう感じ始めるようになっていました。


ニュースでは、自然が失われ、子供が外で遊ばなくなったと報じられるようになっていた、そんな時期とも重なっていました。


僕は自らの体験から、そのニュースを見て不安な気持ちになりました。


自然の中で遊ばす、人は本当に生きていけるのか…。



そんな時でした。
僕の耳に、悪い知らせが入ったのは。





友人の兄がうつ病で自殺したというのです。




その知らせを聞いた時のあの感覚は今でも忘れていません。


その友人の兄は、僕と会ったことも話したこともない人でした。


なのに、頭が真っ白になり、


なんで?


なんで俺は何にもできなかったんだ。


俺どうすればよかったんだ。



今でもなぜだか分かりませんが、『自分の責任』『自分の力のなさ』、そんなものを感じました。


会ったこともない人の死。


でも身近な人の死。



僕はもうこんなことをしちゃいけない。

そう強く感じました。


そして、以前から何気なく感じていた学校教育への疑問、社会への疑問、そんなことを改めて深く考えさせられました。


『僕に何ができるのか』

『何をすれば一番いい形で社会に役にたてるのか』


なぜだか分からないけれど、そんなことばかり考えるようになっていました。



それからというもの、僕はその答えを探し続けていました。


なんとなく、『僕が学校の先生になっても何とかなる問題じゃない。もっと他の道があるはずだ』と感じながら。



大学3年になり、月日も過ぎた秋の事、その答えのヒントに僕は出会います。



当時、僕は教育学部の『保健体育専攻』に属していました。

同じ体育科クラスに『野外教育専攻』という専攻があります。


その野外教育選考の、渡辺隆一という先生と、たまたま少し話す機会がありました。


隆一先生とは、それまでまともに話した事はありませんでした。

それでも隆一先生は、僕がよく自然の中へ遊びに行っていることを知っていたらしく、こんなことを言ったのです。




『お前みたいに森で遊んでるやつは環境教育やってりゃいいんじゃねぇの?』



僕は思いました。

『環境教育ってなんだ??』



僕は聞きました。

『…環境教育って何ですか?』



隆一先生は言いました。

『もうすぐ山梨県の清里づで環境教育の大きな集まりがあるから行ってみろよ。』



僕はすぐにその『清里ミーティング』への参加を決めました。




『環境教育ってなんだ?』



それでも、その言葉に、僕は大きな期待を感じていたのです。


続く…
  


Posted by どんちゃん. at 2008年08月05日12:04

僕とリヤ王part.2

大学2年の春、僕は授業で『日本の自然と文化を考える』という授業を受けることになりました。

『受けたくて』ではなく、『受けなければならなかったから』です。


その授業を担当していたのは、中村浩志という先生でした。

中村先生は鳥の研究では世界的にも有名な学者で、自然にも精通していて、『子供の頃の原体験が人間を作る』という持論を持つ人でした。


授業を受け始めた当時の僕は、子供の頃のような自然への興味が、心の奥底へとしまわれていて、『そんな、鳥とか花とかの名前なんて覚えたってちっとも面白くない』と感じていました。


そんな僕が、この授業をきっかけに、少しづつ変わって行くのです。



この授業では、中村先生と野外へ出かける機会がたくさんありました。


植物の観察、フクロウのヒナの観察、バードウォッチング、さらには夏休み中の河原でのキャンプ。

その中で中村先生は木に登ったり、イワナを取ったり、実に様々な『技』を見せてくれました。


そんな先生の姿を見るうち、僕の少年時代の思い出や、元来から人より少々強めの好奇心が刺激され、気がつけば僕は一人でも自然の中に遊びにに行くようになっていました。


植物や鳥の名前を覚えたり、ツリーハウスを作ったり、川に飛び込んだり。



そんな、『自然に帰った』僕に、再び大きな変化が訪れます。

それは、僕が大学3年になろうとしていた、冬のことでした。


続く…
  


Posted by どんちゃん. at 2008年07月18日14:35

僕とリヤ王 part.1

昨日、今日、明日は、リヤ王は休養日です。
今週末の中野陣屋まつり、いまから楽しみです。

さて、リヤ王が休んでいる間に、僕リヤ王に出会って今に至るまでのこと、僕の生い立ちなんかを絡めながら書いてみたいと思います。
時間があるときにちょこちょこ書いていきますので、よろしければお読みください。



僕は小さい頃、昆虫ばかりを追いかける虫っ子でした。
家族もアウトドアが好きで、キャンプに行くときは必ず虫取り網と虫かごを持っていったし、夏の夜には、よくおじいちゃんと一緒に、近くの神社にセミの羽化を見に行ったものです。


僕の父親は中学校の音楽教師で、アウトドアが好きとはいえ、自然に精通した人ではありませんでした。『アウトドアがすき』というよりは『旅行が好き』と言った方がいいかもしれません。夏のキャンプのほかにも、冬にはスキーに行くなど、色々なところに連れて行ってもらいました。その影響で、僕は今でもいろんな所に旅に出かけます。

僕のおじいちゃんは、元鯨漁師です。最近、捕鯨の問題が話題になっていますが、僕のおじいちゃんは若い頃、そんな捕鯨を仕事としていて、世界中を航海していたのです。
祖父母と同じ家で育った僕は、そんなおじいちゃんの『職人気質』みたいなものを感じながら育っていきました。おじいちゃんは何でも自分でやってしまう人で、今でも元気に庭仕事をこなしています。


そんな環境で育った少年時代の僕は、とにかくやんちゃ。いたずら好き。やりたいことは一人でも突き進み、我が道を行く。
そんな子どもだったようです。
ドブにハマって作った傷、木から落ちて作った傷、包丁で作った傷。少年時代のいろんな痛い思い出も、僕の身体にしっかりと残っています。

今思えば、こんな少年時代が、今の僕を成り立たせているのかもしれません。


しかし、中学に入ると、僕は陸上部に入部し、放課後や休日は練習。
部活が休みの日にも、友達と家でゲームやマージャン(中学生のくせに!!)ばかりしていたのです。

高校に入っても、ハンドボール部に入部し、来る日も来る日もハンドボールに熱中する高校時代でした。
しかも、進学校だったため、部活の合間に勉強についていくことだけで精一杯でした。


高校3年の夏、僕は信州大学教育学部に進学する事を決めました。
昔からスキー、この頃はスノーボードが好きで、しかも長野へは家族旅行で度々訪れているため、なじみのある土地でもありました。
教育学部に行きたかったのは、子どもが好きだから。ただそれだけです。教師になりたいとか、教師に憧れていたとか、そんなことは特にありませんでした。
ただ、『教育学部に行ったら教師になるしかないのかな』、そんなことを考えていたのです。


2003年の春、僕は希望どうり信州大学教育学部へ入学しました。
新しい友達も増え、部活はスキー部を選びました。

しかし、お金のかかるスキー部は、1年生の終わりに辞めました。


スキー部を辞めたものの、大学の授業は義務教育ほどは忙しくなく、僕は時間をもてあますことになりました。
なにしろ、小学校以来の『部活が無い生活』です。


そして、僕が大学2年生になったそのころ、僕の楽しかった少年時代を思い出させる、運命の出会いが待っていたのです…!


続く…  


Posted by どんちゃん. at 2008年07月17日11:40